父の湯のみと私の湯のみ

山本容子さんの「静物画」という画集を見ながら、
思い出したものがある。
それは、父の湯のみと私の湯のみである。
私が小さい頃に、父が旅行中に陶芸をしたらしく、
ろくろで作ったもの。
小さい私には、小ぶりな湯のみ。
そこには、淡路島の海岸にある松林であろう、
松が描かれ「あきこ幸せに」と達筆に書かれてある。

父の実家は淡路島で、夏休みになれば、五色の濱や
遠浅とよばれる洲本の方に行っては、
朝から夕方まで海でプカプカ浮きに父と母と私で行く。
疲れたら松林の下で、ごろりと寝転ぶ。
あの頃見た松を思い出すような、
いい感じで墨絵のように描かれてある。

父の湯のみは、朱色一色の濃淡で、
大人の手の平にぴったりくる大きさである。
どちらとも使う人にとって、ぴったりくる大きさで、
そして、厚さも厚すぎずちょうどよい。

それに気づいたのは、数年前で、
陶器で万華鏡を作るという事をした時に、
初めて陶器を作る難しさを知ったからである。
陶器は焼くと縮むので、それを考えて作らないと、
心地よいサイズも厚さもできない。
なぜ、父はこんなにうまく作る事ができたのか?と、
湯のみを手にとった時、ふと疑問に思い、
父に聞いてみた。

父は、子供の頃、蒔きでお風呂を焚く時に、
一人で火の番をするのが退屈で、あたりにあった粘土質の土で、
顔や動物や器を作っては、その火で焼いていた。
そんな遊びで、どうやら陶器作りを知ったらしく、
あんなよい湯のみが出来上がったわけである。

本とかでも、「だれそれに捧ぐ」というようなよい本があるように、
父が作った湯のみは、最高にいいと思った。
私の指針の一つである。
[PR]
by hana-neo | 2011-06-10 00:14 | diary